2013年01月22日更新
文化の中の「お土産」と「おみやげ」
さて、「おみやげ・お土産」って本当はどっちが表現が普通なの?ちょこっと調べて見ました。(どうでも良い!いやどっちでも良い!の声が聞こえてきそうですが・・・)
とある筋の話しですが、昭和50年頃に”ちまきと生花”のルーツを調べるために、日本人が中国のベキラと言う町を訪れました。その町から”鯉のぼり・五月の節句飾り・ちまき・生花”が発祥し、日本に伝わったとされています。その時中国政府のあっせんで北京の土産品協会代表の方々と会合をしました。これが”お土産とおみやげ”の表記の違いを生んだ出来事だったんです。何故かと言うとお互いの話しが、通訳の方を通してもどうしてもかみ合いませんでした。よくよく話しを聞くと中国の方々は農産物の生産・販売を営んでいる方だったのです。つまり、日本で言えば農協・中央市場の方だったのです。中国では「お土産」は農産物をさし、日本人が農産物を買い付けに来たと思っていたそうです。それから、日本では「お土産」を平がなで「おみやげ」と書くことが増えたそうです。ちょっと面白い話しだと思いませんか?
その勘違いさせた日本人達は京都土産品商組合の方々だったそうです。京都のおみやげと言えば・・。「ゆば・あぶら取り紙・漬け物・お茶・・・」など様々な物がありますが、その中でも有名なのが「八つ橋」ではないでしょうか?
「八つ橋」のお話を少し・・。
ご存じだと思いますが「八つ橋」とは原料をうるち米を用い、とり粉に大豆、薬用に使われているニッキが香料に使われている円柱を半分にした形の焼き菓子です。歴史は、徳川幕府にさかのぼります。秀吉時代に街づくりの効果で四条河原の賑わいも名所となったり、歌舞伎が生まれた花街・二条城の建設・高瀬川の開通・和算と算盤の発明・江戸〜京都東海道五十三次・伊勢街道の開設などで人々が住み着き、京都が賑わっていました。その時流れに合わせ和楽も発展をしました。当時の町衆の間では、三味線と笛が中心で演奏されていましたが、武家の間では尺八と琴が流行っていました。その時に「八橋城秀」という検校が筑紫琴の名人として登場し、琴曲八橋流(後世の生田流)の開祖と成りました。海外ではちょうどベートーベンがシンフォニーを作った時代と同じ頃です。検校は、京の室町に道場を開き、また島原を初め花街などにも多くの弟子がいて、多くの門人を養成し世に出しました。検校は、全盲でしたので米を研ぐときに流しにザルを受け流れ米を溜めて、自ら手焼きのせんべいを作り来客にもてなしていたと言われています。余談ですがそのことから「お米を粗末にすると目がつぶれる」と言う教訓も生まれたとさせています。当時の市中には多くの煎餅屋がありましたが、その人々の中から検校を慕う心で、米を材料にした堅焼きを作り、短尺型に切って、反りを付け、琴の形に見立てて売るようになりました。何時しか人々は検校をしのび、その琴姿の堅焼きせんべいを「八つ橋」と呼ぶようになり、名前の由来になりました。
「八つ橋」は、今では、生八つ橋や様々な味の物が開発され、多く親しまれていますが元祖八つ橋の硬くってブリッチ場の焼き菓子を含め、形は変わっていっても、人を思う気持ちから出来たお菓子であることは変わりません。何百年・何千年と人を思う気持ちから出来たお菓子は、何か日本人の愛を感じます。
そんな、日本人に愛を感じ「八つ橋をいだだきます!」
今年もカラーしょうたいちょうが、会社を
代表して千葉県成田山新勝寺へ安全祈願に行きました。
これで今年一年も安全に仕事ができるはずです!
そして・・・成田山のお土産といえば・・・・
『なごみの米屋』の『ぴーなっつ最中』
今年もおいしくいただきました。
2013年01月10日更新
謹んで新春のお慶びを申し上げます
弊社は1月7日から新春の営業を始めさせて頂きました。
旧年中は格別のご厚情を賜り厚く御礼申し上げます。
本年も皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
旭塗装工芸社 からーぐんそう
本年も残りわずかとなりました。
寒冷のみぎり、いかがお過ごしでしょうか、
謹んでお伺い申し上げます。
厳寒の折柄、ご自愛専一にご健康にご注意ください。
平成24年12月30日より平成25年1月6日まで、勝手ながら年末年始休暇を
させていただきます。
来年も変わらぬお引き立てのほどお願い申し上げます。
みなさまー忙しい師走は乗り切れそうですかー?
カラ・グンソウです。
ふと冷蔵庫を見てみたら梨の親方みたいのがいました。
驚いて聞いてみるとお歳暮でいただいた梨のようです。
おいしくいただく前に記念撮影をしたので載せてみました。
うまくてでかくて幸せです。
ありがとうございます!








